INTRODUCTION

みまもり観音とお写経

「みまもり観音」は、関東大震災や東京大空襲などで殉難された多くの方々のご冥福を祈り、天災や戦争のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため、當山の檀信徒をはじめ、猿江地区六ヶ町内有志を中心に一万数千巻に及ぶお写経を勧進、昭和56年9月1日、法相宗 大本山 薬師寺 高田好胤管長を開眼導師に迎えて造立開眼されました。

「みまもり観音」の名称には、観音さまの限りない大慈悲によって亡き人々、いま生きる私達を日々に「みまもり給え」という祈りが込められています。その尊像は、十八世住職(徹誉旭雄上人)の熱意に打たれ、造立の趣旨に深く共鳴された薬師寺高田管長のご好意により、同寺東院堂の本尊である国宝「聖観音像」を原型に拝借、実写して二・二倍にし、金寿堂主、黄地佐平氏(滋賀県無形文化財)の指揮のもと鋳造されました。

重願寺のお写経は、浄土宗の根本経典である『無量寿経』に説かれる四言八句偈文を中心とした一説を書写いたします。お写経の形式は「一字蓮台経」といい、経文の一字一字を蓮台の上に書き写してゆきます。みなさまが書写されたお写経はねんごろにご供養の上、保存用カプセルにおさめ、みまもり観音像の台座下の収納庫に納経いたします。

◎納経供養費 一巻 2,000円

山門

重願寺の山門は、「重願寺開創400年記念平成大復興(平成12年)」の一環として建立されました。

當山では、寺院建築の象徴といえる伝統的な技法を用いた山門の建立を念願していたところ、法相宗 大本山薬師寺・安田暎胤管長のご好意により、薬師寺の「講堂」(教場)に使用されていた由緒ある木材を用材として頂戴することができました。

薬師寺の「講堂」は、寛政7年(1795)に重願寺が創立の地日本橋馬喰町より現在の地・猿江に移転したのと同時期に建立された歴史ある建物で、その用材の樹齢は400年に達します。

建築にあたっては、宮大工牧野重義棟梁(東京足立区在住)にお願いし、約8ヶ月の期間を経て「四脚門形式の山門」が完成。大和の郷にあった歴史ある建物は、牧野棟梁の手によって柱の1本1本に繊細な彫刻がほどこされ、500キロ離れた江戸の地に「山門」として蘇りました。

この山門は當山の寺宝として、檀信徒の皆様、地元の皆様と末永くご護持していきたいと念願しております。

史跡

∧無縁塚

関根正二は、明治32年(1899)に福島県西白河郡大沼村(白河市)で、9人兄弟姉妹の第4子として生まれました。

大正元年(1912)に東川小学校を卒業し、翌年より伊東深水の勧めで画を描き始めました。16歳の時、第2回二科展に「死を思ふ日」で入選、第5回二科展では「信仰の悲しみ」「姉妹」「自画像」が入選し、樗牛賞を受賞しました。

将来を期待されましたが大正8年(1919)6月、肺結核のため21歳の若さで亡くなり、現在は正二の姉が嫁いだ奥田家の墓に埋葬されています。

(江東区教育委員会 関根正二墓の史跡標より抜粋)

∧山門前の石碑

戦災・震災資料館

重願寺の歴史を振り返ると、幾多の災害による苦難の時期があります。大正12年9月1日、東京の街を襲った「関東大震災」、昭和20年3月10日の「東京大空襲」と近年だけでも二度の大災害に見舞われました。その中で、十七世 玄旭上人は寺族ともに空襲の戦火に命を落とされました。その戦火を逃れた十八世 旭雄上人は、後に「慰霊なくして平和なし」の祈願のために色々な資料を集められました。

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